昭和45年05月18日  朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ、途中からできた神でなし、天地は流行る事なし、流行る事なければ終わりもなし、天地日月の心になる事肝要なり、信心はせぬでもおかげはやってある。」

  天地金乃神様は昔からある神ぞと、言う所合点がいきます。なるほど天地創造以来の、神様は天地金乃神様だなと言う事が分かります。またその神様の「信心はせぬでもおかげはやってある」と言う事も分かります、成程この神様のおかげを頂かなければ、一切が立ち行かない、と言う事も分かります。天地の働きと言やぁ広大、これは無辺なものだと、ね、まっ至上至高というわけですね。
 その天地の働きを、私共の上に新たな実感、いわゆる新たなおかげという感じで、頂きまたは現していくということを教祖様は教えて下さったわけです。ね。 確かに天地は流行る事もないし終わりもないことでしょうし、また天地金乃神様というのは、その天地だけではなくて、天地一切でよね、一切を一切の働きをつかさどって下さる、そういう神様を神様と、天地の親神様として、おるのですから。
 成程終わりもなからなければ、だからと言うて天地が流行ると言った様な事もあろうはずがありません、ね、そういう意味において、なるほど最後のところの「信心はせぬでも、」ね、これはとりわけ人間万物の霊長の上に、これは生きとし生きる物の上に、お恵み下さってあるおかげ、その天地の働きと言えば、もう言葉を持ってしようがないほどに、まあそれを広大無辺といこう言うわけである。
  その広大無辺の、お働きをです、ね、私共人間一人一人の上にです、おかげと、思わせて頂けるほどしに、天地の働きを私共の心に感じる事ができる、そういう、おかげの受けられる働きをですね、示して下さり、導いて下さり、またはそれを取り次いで下さるのが金光大神、ということになるわけですね。だからここの御理解7節の頂くにあたって、前提として、今の事がわからなければなりません。
  天地というのは所謂昔からある神ぞであり、信心はせぬでもおかげはやってあるという神様、けれどもそのおかげをやってあるというその神様のです、そのおかげをね、おかげと感じさせて下さる、またそれを現させて下さる、そこに人間の幸福というものがあるんだと、ま教祖様は教えて下さったわけですね、そこでそういうまあすさまじいまでの天地のお働きの中にあって、私共がそういう神様のお働きを受けさせてもらう、それを頂かせてもらう、それをおかげを頂くとこう言うわけですが、ね、
 そういうおかげをね、現していく、そういう道そういう教えをして下さった、そこでここでまぁ肝心なところはです、そこんところをまあ前提として分からしてもろうて、ね、ならそういう天地の働きをです、私共の心の上にも体の上にも、家庭の上にも社会の上にも、現していけれる生き方、生きていく生き方、ね、そういうおかげを現しながら生きていけれる生き方それをここでは、「天地日月の心になる事肝要なり。」と教えておられるわけです、ね、
 それ金光様の御信心はどうあっても、天地日月の心になる事肝要だとして日々の信心生活がなされていかなきゃいけません、天地日月の心になる事肝要なりそこで、天地日月の心とは、ならどういうような心かと、ね、天の心地の心その天の心地の心を心として、日月とは、この前このところを頂いた時に、日月とは「陰陽」と頂きましたですね、「陰」はかげ、「陽」は太陽の陽ですね、まあ男と女といったような場合にも、陰陽ということを申しますね。
 の心とは与えに与え恵むに恵む心と、しかも無条件というのが天の心と、ま言われております。地の心はそれを受けに受けていくということ、大地の心というのは、受けに受けていく、それも天が無条件に恵みに恵み、与えに与えておって下さるのですから、それをまた無条件で受けて受けて受けぬいていくということ、ね、厚いも言わなければ寒いも言わん、黙ってその厚さ寒さをこの受けていく心、自分の都合の良い事だけがおかげではない、都合の良い事も悪い事もそれを黙って受けていく。
  ですからどうでも私共がね、天地の心を心としてと言うか、まあ簡単に言うとそれだけの事、まあ説明すれば只今申しましたようなこと、ね、いわゆる与えに与えていくという心、ね、それをまた受けに受けていくという心、ね、ですからその、与えに与えていくという、恵みに恵んでいくという事をもう少し具体的に言うと、その、親が子を思う心ということになるのですね、親が子供の事を思う事、いわゆる無条件に子供を愛する、そういうことになるね、言わば、親切ということになる、ね。
 その心というのはあぁどういう事かと言うと、御道で言う真一心とか真心とかというこの真というこの真心ですね、真(しん)という字、ね、真(まこと)という字、ね、真ということ親切というのは天の心ですね、天の心天の心を与えに与え無条件に、ね、「向こうから、こればやればまたこれば貰えるから」というて与えるのではなくてね、ただ与えに与える、無条件に与えるという心、それをまあ具体的に、小さくもう少し小さく言うと、それを親切親が子を思う切なる心ということ、ね。
 親が子を思う切なる心、それを親切とこういう。ね。ですからどうでも私共がですね、やはり、親切な心というものを育てていかなければいけんのです。生まれつき親切な人がありますけどね、生まれつき親切な人は、多々にして親切過剰になりますもんね、そすともう、これは本当の意味での親切になりませんもん、返ってご迷惑かけます、親切な事が、ですから何と言うてもだから。
 言わば一から出たところの親切でなからにゃいかん、親切というものは信心によって、鍛えられると言うか、親切に信心によって分からしてられるところの、親切でなかにゃいかんということ、ですから親切の人も不親切の人も同じ一線上に出てから、神様の言わば天の心というものを学んでいかにゃいかん、それが親切の心、ね、だからその親切の心というのが、または限りなく美しゅうならせて頂こうとかね。
 日々の改まりとか、日々本心の玉を磨いていくというような、その教えに基づいたところからしか生まれてこないのが親切、どうでもだから、そういう根本的な信心の日々の改まりが第一、本心の玉を磨くといったようなことに焦点を置なければ、本当は親切は生まれてこないということになる、そうですね。 だけんこう理屈っぽく難しいようですけれどもね、どうでも金光様の御信心さしてもらうとその。
 「天の心とは、なんとこういう心か!」というようにですね、追求してみなければいけんのです、分からんのです、そしてそれを、自分の心に頂こうとする精進が必要なんです、ね、天の心いわゆる「親切」。地の心を私は今日は「真」とこう申しております、ね、ですから「真とはなにぞや?」と、言った様な事を皆検討しますよね、「真っちゃならどういう事か?」と、私は地の心になることが真だと思うですね。
 大地はね、真の権化のようなものです。「黙って与え黙って受ける」と言った様なね、ですからそう言う様な例えば「真」とか「親切」とかと言った様な事がですね、それをもっと、それを具体的に御道流に申しますと、それが「実意丁寧神信心」と言う事になるのですよ、いわゆる天地日月の心とはね、いわゆる実意丁寧神信心ということになるのです、そこでそのなら実意丁寧神信心の、まあ言わば権化のような方であった教祖様の、御信心ぶりと言うか、御あられ方と言った様なものが。
 真似ではなくて、それを学ばせて頂くというところに、御道の信心があるのです、いわゆる真似ではいけませんからね、だからいわゆる、「金光大神を学ぶ」ということになります。ね。そこで私共の日常生活の中からです、はたして実意丁寧な、生き方思い方が出来ておるかということを、検討させてもろうて、おかげを頂いていき、そしてその、なら実意丁寧とは、また具体的に言うと。
 三代金光様は、「わがまま、横着をしなければよい」と仰っておられます、ね、「実意丁寧とは、わがまま、横着をせねばよい」と、その心で縋ることを信心、いわゆる実意丁寧神信心、だから神様に縋るというても、願うというても、「実意丁寧な心を持って願え」とおっしゃるその、が分かりますですね。私は、例えば、まあ難しい、難しい表現じゃないでしょうが、ね、
 分かるでしょうが、今私が言ったこと誰だって分かるでしょうが、ね、だから金光様の御信心はね、そこんところを本当に学ぼうという姿勢にならなければだめなんですよ、天の心を心と、しておるか?、地の心を心として、日常、一生懸命、修行させて頂いておるか、ね、そこにはもう自ずとだから、現れてきたり、思われてきたりするのが、実意丁寧神信心なんです、ね。まあそれを私は、まあ具体的な一つの例話を持ってね、分かって頂きたいと思いますことがあります。
 昨日丁度四時の御祈念のちょっと前でしたでしょうか、高芝さんがお礼に出てみえて、丁度応接間でお茶頂きながらしとる所へ、秋永先生がひょっこりやってみえて、それでまあ色々話しておる内に、高芝さん帰られました後にまた二人でもう本当にこう、もうこりゃ秋永先生にもやっぱ時々は朝の御祈念での時に、こうやって御取り次ぎしたりさせて頂いて御理解を聞いて貰うて、さよならというのだけじゃなくて時々はやっぱこの一人一人こうやってこうしとくとやっぱこんな話しが出るんですからね。
 「こりゃぁ時々はこげなぁチャンスをぉ作らなきゃいけんね」というてまあ話した事、もう本当にそれこそ時のたつのも忘れて、あぁこりゃあ他のもんには分かるまい、秋永先生あんたじゃなきゃあんたでまぁようやく分かる位な事じゃろう」っちいうごたる話しを、まあ一生懸命現代の金光教について、教団のあり方について是からの合楽の事についてまあ色々、あぁ聞いてもろうたわけなんですよね、その中にね私はその中にまた例話として、あのまあ名前を出してどうかと思いますけれども、名前を言わんと実感がこもりませんから申しますが、
 久富正義さんと、内田峰子さんの事を、私は先生に聞いてもろうたんですね、「本当にこの、しかし金光様の信心ちゃぁこういうところが身に付いていかなければですね」というて話したことでした、今丁度正義さんが仕事しておりますのは、あの内田さんところのあの川を広くしておられる、ね、あの裏を今仕事やっています、ほんで内田さんところがあそこ側ですから、まああそこにお茶飲みによったりまあするんでしょう。
 色々信心話をしたり、よもやま話しをしておる中にです、今度あそこのおぉ風呂場が、全部川になるそうですから、あそこ取り取り除かにゃいけかん、でその事についてまあ色々打ち合わせをしたら、話しをしたりしておる内に、またぁ内田さんが話しをされた、「実はあなたこの家を、買うてくれと言うて親さんが言いよんなさる」とこう言うわけである、「あらこの家お宅の家じゃなかったですか」っち。
 そりゃあんた、長男があげんしてどまぐれよった時分に、この家を抵当にしてしとりましたもんじゃけん、高利貸しからとうとうこの家は、まあ取り上げられてしまって、そしてまあ結局それを借らせて頂いとる形になってもう十何年でしょうか、それを今度先方でも大変まあ困られる事情があって「どうでもこの買うてくれ」とこう言われる、ね。それでまあ子供達に、何人も子供達がおりますから、話してそういう事になっていかんならんという話しが出たんです。
 そしたあらね、正義さんがこういう事を言うたそうです、「内田さん、その、」それを十五万で買うてくれとこいいうわけですね向こうとしては、「内田さんどうせ私は金足らんとばってんか、十五万ぐらいならどうかなろうからね、あの使こうときなさい」って言うたっち、もう私はそれを聞いてですね、昨日、昨日の晩でした、昨日の晩内田さんがここにお礼に出てまいりましてからね。
 「もう親先生貸してもろうた、と同じ嬉しさ」という、なぁにも財産もなにも無い、それこそマサキさんが知っておられる通りの私にですよ、ただ話したら、あの「どうせ足らん金だから、あんたに十五万円貸したからどうこうっちいうないから、あの、なんなら使うときなさい」とこう言うてくれたっち、「もう私はもう嬉しゅうしてもう嬉しゅうして有り難うしてこたえんじゃった」っち、ね、
 そしてその翌日子供達に、言うておったら、広島の方からたったそれだけの金を、都合して送ってくれた、ね、それから明くる日また正義さん来てから、あの「どんな風だったか?」と言うわけで、「おかげでこげなん風で、浩治のところから送ってくれました」っちいうたら、一緒に大変喜んでくれたとこういうのである。「ほんなこてもう内田さん、ほんなこて私が、お礼ば、いいげ、行こうごたる」って私が申しました、その言うてもらうだけでもね。
 何時返せるかめどもつかないようなその金を、まあいくらなん、値打ちがない金っち言うたってやっぱり十五万、なら小さい家ではあるけども、一軒買うだけのお金ですからね、まっ、そしえその次のことがね、私は信心だと、いわゆる天の心と地の心を私は内田さんの信心というならば、正義さんが信心からそれを感じたんです、ね、丁度おぉ高芝さんとこの宅祭りの日でしたから、も、夕方なんかはぬくなってもう、今にも降りそうになりましたですよね、
 そん時丁度正義さんはあそこの裏をですねずうっと、もうほっずうっと掘ってそこにコンクリを流し込む、ばっかりに段取りが出けておったそうです、仕事がそれでこりゃ、今夜から明日にかけて雨が降るならば、こがしこ長いとこを掘りゃ、掘り掘り上げとるとです、また砂利が一杯になってしまうっちいうのです、「もう先生私ぐらいな者の祈りでもです、こりゃあどうでも聞いて頂かんならんと思うて、もうほんに一生懸命お願いした」っち天気のことを、内田さんがですよ、ね、
 「もう本当に私ぐらいな者の祈りを、神様が聞いて下さった様に、あの様にお天お天気になってです、昨日一日昨日もでしたがその前のお天気のおかげを頂いた」と言う事です、もうそれこそ涙乍らにお礼を言われるとですよ、私はね成程この親切と言う事の中にはね、そんな素晴らしい働きが知らん、昨日の御理解じゃないけれども「知ったおかげより知らぬおかげが多い」っていう自分自身の事をですね、例えば赤の他人の誰彼がもう一心込めて祈ってくれておると言う事なんですよ、ね、
 だからいかに親切な人がです、周囲からそういう良い意味においての祈りが集まるかということが分かるですね、それと今度は反対ならどうでしょうか、日頃はあげんして、それこそ、もう親戚付き合いのごとしよったっちゃさあ愈々金銭、愈々という時には誰も見向きもしないと、頼んだばってん知らん顔しちゃったといったようなです、事になったら、それと反対の事が、ね、祈りではない言うならば、それをも言うならば憎みとか怨みとかというようなことにまでなってきましょうよね、
 そういう例えば怨むと言った様な心がどのぐらいに、そこに祈りのしゅうっそのまあ悪い影響が、あるかと言う事は信心をすればよく分かる事です、有り難い思いというものが有り難いおかげの、に繋がって行く様にです、私はその事を秋永先生に話してから、「本当に秋永先生、私くしゃ正義さんにお礼が言いたいごたる気持ちがしたがの」と「ほんなこつですもんね、そこにっきお互いが、欠けておるとこですもんね」思うっちゃおったっちゃ中々言やきらんって、ね、と言うてまあ二人で話し合った事です、ね、
 所謂今日私が言う天の心が、切っ親が子を思う切なる心である親切というならです、ね、正義さんの心が天の心であり、ね、それを受けて立たせて頂いた内田さんがです、「とにかく今夜から雨どんが降るならば、ここを折角是だけ掘り上げられた所の谷がまた元に戻ってしまう、こりゃあどうでもおかげまあおおげさで言うなら、命に懸けてもいっちょ私は祈らにゃならん」と赤の他人の正義さんの事を思うたっちいう、ね、そしてこの様なお天気のおかげを頂いてです、
 もうそれこそそりゃあ正義さんが知りもせんでしょ、なら内田さんが祈ったと言う事ね、おかげで立派にそれが出けていきよるのを見てから、内田さんがお礼を言うておられる、あっ事がです、ね、私は地の心じゃなかろうかと、真とはもう無条件に祈れれるそのことなんだと言う事ね。私は今日この七節からね「天地金乃神という神は昔からある神」と、成程成程昔からある神である事は皆さんがまあ分かっておられる、
 またはその天地の親神様というのは、生きとしいけれどもいや取分け、人間万物の霊長の上にはです、ね、万物の霊長の上におかげを下さってある「世界中の氏子におかげをやってある」とか「信心はせぬでもおかげはやってある」というおかげを、下さっておるということは分かります、ね、そこで金光教祖は、ね、そういう天地の働きをです、おかげと感じさせさせて下さる、ね、
 「今日おかげで目が覚めました」「水道ひねりゃあ水が出ます」「マッチをすりゃあ火がでる」もうなんと不思議なことであろう、この様な不思議なおかげの中にあると言う事だけでも、有り難いのに信心させて頂いて、あれもおかげ是もおかげと感じさして貰えれるそういう道をね、教祖様はたてて下さったんですよ、ね、そうしてその天地の言わば、凄まじいまでのその働きをです。我が身の上にも家の上にも社会の上にも現していく道を、教えて下さったんですよ、ね。
 それにはね教祖様がここではね、「天地日月の心になること肝要だ」と教えられたんです、ね、天地日月の心になる事肝要なのだと、ね、その天地日月の心を私は、まぁ色々な角度からお話しまして、今最後にですそれをまあ具体的に具体的に私共の生活の上にです、まっ現していくと言う事を、内田さんと久富正義さんの例を持って申しましたですね、実意があるじゃないですか自分の思うた事を、表現して行くという事が、ね、本当に実意丁寧神信心がね、
 例えばそのようにして日々の生活の中に現わされていくというところにです、ね、天地日月の、いわゆる拝み合いの、姿というかね、お互い人間関係の中にあってもです、ね、拝み合うていく、親切をし合うていく真を尽くし合うていく、と言う様なものを私は、内田さん、正義さんのおぉ事からまっ分かって頂きたい、またお互いの生活の上に現して頂きたいという風に、今が申しましたですね。ともう一つお互いが。
 「天の心とは地の心とは。日月の心とは?どういうような事なのか?」そこに教祖は実意丁寧神信心という、その実意丁寧の権化のような、生きられ方をなされた、だから私共はそれをただ真似る、形の上だけ真似るだけではなくて、それを学ばなければならない、それを私は最近は「和賀心学」と言うておる、和賀心学というものを学んで、ね、お互いが和賀心にならせて頂くところからその中身にです、真もあれば親切な心も育ってくるというものですよね。
   どうぞ。